原色の朝、一杯の熱い、フルーツのような珈琲を飲む。
そのために、必要な言葉たちの徒然。 |
店は休日だが、いつも通り、朝から、夫婦二人、黙々と仕込みに入るが、
昼過ぎに息切れ。
仕込み中にエアコンを効かせる訳にもいかないので、珈琲の焙煎釜とオーブンの熱で
屋内熱中症になりそうで。。小休止。というか、もうギブアップ。
仕込みを夜に残すのは、全く気が乗らないが、ビールに冷たい素うどん、
ちょい濃い目のタンザニアで、プライベートモードに切り替えてしまう。
好きだと言ったらKクンが貸してくれたので、サルガドの作品集をじっくり堪能。
この人の写真と本当に向き合うには、物理的なプリントの大きさが不可欠だと思うのだが、
それでも、心を十分にざわつかされる。
そして、何度も繰り返していることに辿り着く。
「人は、今日一日を生き延びれば、それで勝利なのだ。」
とは言え、誰一人、味方のいない状況で生きていくのは、しんどいものだ。
二人、ないしはたった一人でも、自分の全人格を受け入れ、理解してくれる「味方」がいること。
そのことが、次の日へ生き延びていく原動力になるのだ。
例えば、夜8時も過ぎ、鎮まり返った村で、「さあ、残りの仕込み仕上げちゃわないとな」
と重い腰を上げたり下げたりしてるような、小市民的な生活であっても。
小さな古本屋でわりと安く買えた。
これは、かの「ピテカントロプス・エレクトス」という場所、というか磁場を軸に、
当時のアンダーグラウンド的カルチャーが、00年代の今の文化に、どんな風に
絡み合って、影響を与えてきたのかを論じている、人によってはめっぽう面白く、
詰まらない人には全くツマラナイという本なのだが、80年代の私と言えば
思春期〜青春真っ盛りの時期。
やはり「今の自分」を総括するには(←かっこ悪い言葉)
避けては通れない時代であって、なので毎晩、ワクワクしながら読み進めてる。
そこで、PLASTICSだ。暇を見ては、PLASTICSの動画。
当時は、踊って歌ってファッションを扇動する佐藤チカさんが何より鮮烈だったのだが、
今改めて見ると、これは全体として、すごく緻密に計算され、クリエイトされた、
希有なロックバンドだったのではないか。
ただのおしゃれな日本版ニューウエーブバンドとだけ括る訳にいかない。
同じ80年ライブでも、YMOはベリークールに決め、
PLASTICSは、弾けてる。
どちらも、心うずく如くに格好良い。
「一生懸命な人にだけ、人は応援する。」
それは、80年代も今も変わらない。
私の珈琲豆も、こんな風に突き抜けられたら良いのに!
KUSA. 喫茶、今週水曜日は臨時休業になります。
宜しくお願い致します。
止むなく、通販業務を週末に。
週中の夕刻、気温がやや落ち着いた頃、お盆の墓参り。
日本だけでなく、世界の色んな民族の間で、死者は消えるのではなく、
「ここ」とは違う別の「場所」へ行くのであり、一年に一度、
生者の場所に還ってくると考えられてきた。
静かな霊園の一角で、また、提灯を灯した仏壇で、死者と向き合い、
心の中で交流することは有意義なことだ、と大人になって、思う。
一年ぶりの代々木八幡駅。
グラウベルの狩野さんとオオヤコーヒーさんの珈琲セッション。
つい、根掘り葉掘り焙煎のこと聞きたくなるが、
参加者全てが焙煎関係者というわけでもないので、我慢する。
でも、掛け値なしに旨い珈琲だ。
代々木八幡には、一時、人からすすめられて、ジャイロキネシスみたいなスタジオに
通っていたが、長続きせず。
勝負もののスポーツじゃないと、続かない性質だ、自分は。
何だか、色んな意味で、「今イチだなぁ、オレ」と考えさせられた夏の夜。
夏のすかっとした陽射しはしばらくお預けで、最近の楽しみと言えば、
Wa-bisukeさんご夫妻から借りる、良質なTVドラマを家族3人で鑑賞することくらいか..。
もしくは、小品の日本映画。
昔から、ドラマと映画に求めるものは違っていて、映画は、少々ストーリーが破綻すれすれでも、
瞬間のセリフが、コマが、少しでも「生きて」さえいればいい感じ。
なので、この蒸し暑い夏の頭には、映画映画の断片ばかりがフラッシュバックする。
『ドノ又の死』で展開される「毛皮族」バリバリの歌謡ダンスシーン。
ちょっと縁あって見ることにした『ジャーマン+雨』の、
一瞬だけ切り取られるドッジボ−ルシーンの日常美。
傑作『ガール・スパークス』の、嘘みたいな疾走シーン。
こういう、ほんの束の間であっても、ある人の心に突き刺さるものだけを、
アートと呼びたいものだ。
明日、12日(水)はHPでもお知らせ致しましたが、
15時15分ラストオーダーになります。
銚子という街は、何十年前かの活況は失せ、
観光地としてはさして観るものもないのだが、
所々に、港町真骨頂の美味しい寿司屋さんがあり、
とても丁寧な仕事をするとんかつ屋さんがあり、
ここでしか食べられない今川焼店があり、
サイフォンで珈琲を入れるケーキの美味しい喫茶店があったりする。
市内は、醤油の酸っぱい匂いが立ちこめ、漁港に近づくにつれ、
当然ながら潮の匂いに支配されていく。
日本全国の郊外都市同様、チェーン店の波に押し寄せられつつあるものの、
裏道には、何ということもない、普通の、しかし市井の人々が懸命に開いている
商店がちらほらと点在しており、私は、何を想うこともないまま、
ただただプラプラと、この、もしかしたら沈みつつあるのかもしれない港町を歩くことが、
好きだ。
この前は、飛行機ラジコンの専門店を見つけ、思わず店のドアを開け、
意味もなく、あれこれと古いラジコン箱を眺めてた。
私は、個人で、商売をしている。商いをしている。
もしも注文もせず、店の中を眺めるだけ眺めて、
立ち去るお客さんがいたとしたら、ご免だ。
このラジコン店の店主も、私みたいな客はご免だったろう。
何せ、ラジコンを買う予定など全然無かったのだし。
気の荒い西浅草の商店主だったら、追い返されるところだ。
でも、この親父さんは、またな、とにっこり笑ってた。
だから、西日の当たる裏路地で、息をすぅーっと吸い込んで、
そのあと、少し、胸の奥の方がズキズキした。
木々が、まるで夏休みの終わりを告げるように、揺れてる。
ゆらゆら揺れてる。
午後は、白楽ベーグルのお二人とカウンター歓談。
相変わらず微笑み絶えないお二人は、随分と私達に励みをくれた。
飲食業は、色々と考えることがある。自前の店のこと、仕入れ、仕込み、経営、お客さんとの諸々...。
いつまで経ってもこれで終わりということのない、味作り。
しかし、最終的に前提となるのは、全ての仕事と同じく、「誠意」だ。
自分の弱さとの格闘、お客さんへサーブする一皿、一カップへの誠意。
彼らは、そんなことを、朗らかな佇まいから、私達に教えてくれる。
閉店後、友人の子供達の誕生パーティー兼ねて、少し飲み。
元アングラ劇団の役者さん、フラメンコダンサー、同じ飲食店従業者や
元フードコーディネータ、子育て中のママさんやらやらの、雑種チームの集い。
こういう、リラックスなワイワイこそが、試練続きの「生活」に活力を与えてくれる。
こう考えると、私達は、毎日毎日、人に与えられてばっかりだ。
一度、本気で決めたら、人間、踏ん張らなくちゃいかん。
どんな風に生きるのかより、どんな風に意思を通してみせるのか、だ。
ある、ばあさまの言ってたことだ。
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