原色の朝、一杯の熱い、フルーツのような珈琲を飲む。
そのために、必要な言葉たちの徒然。

夏期休業などなど.


私は決してハルキストではないのだが、中高の多感な時期に初期3部作に触れ、静かに衝撃を受けた者の一人ではある。
その時は未熟で何に感じていたのか、村上龍派の多かった同級生にも「だってこういうのは過去にないじゃん」程度にしかうまく伝えられなかったけど、吉本隆明の昭和58年評を借りれば、「いわゆる文壇純文学とは方法の出処が全く違う。この出処が違うという意味が、世界の先進的な資本主義がちょっと考えも及ばないところに入ったという理解と重なるわけなんです。ぼくはそう評価する」という衝撃に尽きていたのだと思う。


最近は、小説の存在論としての深部深部へと舵が取られている気がして、逆に衝撃を受けたりはしないけど、この活字離れの時代に本を出せば話題になるという稀有な作家なのは間違いない。

そして、久しぶりに新作の短編を読み、違った意味でシンクロニシティのようなものを感じたのだが、それは学生時代の歌人との交際が脳裏に焼き付いているといった編を読んだから。
私も偶然にも大学生の頃、歌人の女子大生と交流していた事があって(交際ではなくて交流ね)、美術館などに行く時の「連れ」みたいな友人だったが、彼女のトークや彼女の美術評が強く記憶に刻まれて、どうかすると時の節々に思い起こす事が今でもあるのだ。

これがバンドやってる子だったり、イラスト書いてる子だったら当時は珍しくなかったけど、短歌書いてる子は珍しかったし。

その時、頂いた処女歌集(自家製だけど)は、本棚が変わってもいつもひっそり端の方に飾ってある。






『浮きぎみに 歩く人影 つぎつぎと
 煉瓦の壁に 薄まりゆく』



この情緒性の中に潜む死の予感に、20歳前後の私は感性の響きみたいなものを感じていたのだ、恐らく。

まあ、こういう自分なりの分析を当時伝えてあげられれば相手も嬉しかっただろうけど、そういうのは往々にして、歳を重ねた時に気づくものだから。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さてさて、HPなどではお知らせ致しておりますが、 KUSA.喫茶は、今週末8/15(土)から8/31(月)まで店舗を休業致します。

例年、お盆は営業していて、帰省の方々とお会いするのも楽しみの一つでしたが、なにぶん狭い店内でもあり、現在、時間帯によって三密が避けられない状態になる事も多く、世の中の状況と照らして判断致しました。


online shopは稼働しておりますので、是非、この夏の酷暑の中、身体を浄化するような珈琲をご自宅でお愉しみ頂けたら幸いです。


一部、少々お時間を頂いておりますが、焙煎を間に合わせていきます。
どうぞ宜しくお願い致します。



KUSA. 喫茶 - trackbacks(0)
Trackback
この記事のトラックバックURL: トラックバック機能は終了しました。
<< NEW | TOP | OLD>>