原色の朝、一杯の熱い、フルーツのような珈琲を飲む。
そのために、必要な言葉たちの徒然。

2017.03.22.

N.Y.C.の3月の突然の氷点下というほどではないにしろ、日本のこの3月も寒暖の差が大きく、パッとしない天候が続いてましたが、今日は至る所に春の匂いが訪れていました。
私にとっての春の匂いは、学生の頃働いていた駅前の小さな書店の匂い、動物園の売店の匂い、絶望的な気分の中、とある運転手をしていた頃、都心の長いトンネルをくぐり抜けた瞬間、カーウインドウを包み込んだ桜吹雪の何とも救われたような匂い、などなどなのですが、どれも救済の色を帯びた思い出でありました。
世界だけでなく、日本を見回しただけでも目眩のするようなバッドニュースの渦の中で、私の身近な若い子たちやまたそう身近ではないものの縁のある人たちが、もう頭がくらくらしちゃうような事案に翻弄されていますが、脱出不能とまでは最悪ではないものの、そこそこの荒波に飲まれてきた私が今、確信出来るのは、春の訪れの季節は神や仏に救済される可能性を秘めた季節であるという事ですね。







「僕には誇りがあるんだ。
人類は、この地上にあり得る限りの最高の真理と最高の幸福とをめざして進んでいるのだ。
そして、僕はその第一列に立っているんだ」
「そこまで行きつけるかね?」
「行きつけるとも!」
(櫻の園)

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