原色の朝、一杯の熱い、フルーツのような珈琲を飲む。
そのために、必要な言葉たちの徒然。

'16.08.02.

夏の気怠さが抜けない。
朦朧とした意識の中で、焙煎をこなす。
頂いたキュウリを塩揉みして、頂いた手打ち蕎麦を茹で、頂いた特上の鯖節で蕎麦ツユを仕上げ、家族三人で大事に頂く。何とか暑さをしのぐ。







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私の中には、一粒一粒の珈琲を焼き上げながら、一編の詩を産み出しているのだという意識がある。かっこつけて言うとしたら。
ある時は、アフリカエチオピアの果実の実を反映させ、ある時は南米コロンビアの麻薬じみた甘い空気を反映させ。


中学生の頃、退屈な授業を半ば流し聞きしながらぼんやり窓を眺めていた時、どうでもいい校庭に真っ白な花びらが舞うのを知る。ノートの端に初めて言葉を連ねた瞬間だ。
高校生の頃、まだエアコンのない教室で、憧れの人を思いながら、汗ばむ指で、手で、やっぱりノートの端にラブレターのような言葉を叩き続ける。
そして、大学生の時、一人の優れた詩人に出会い、それからは、文字に捉われず、会話や仕事ぶりや服装や、全てに「詩」を宿すことが出来れば良いのにと、その思いは珈琲店で働く、「今」、「この自分」にもしっかりと刻まれ続けている。

吉増剛造だ。




「声ノマ 全身詩人 吉増剛造展」。

吉増剛造や吉本隆明の現代詩の素晴らしさを、意味や評価で幾らでも語れるのだけれど、結局最終的に辿り着く特筆すべきは、この詩人たちの圧倒的な物理的物量なのだ。
全て、表現に携わる人は、国立近代美術館に初めて展示される、吉増の半世紀に亘る凄まじいドローイング文字の物量に、文字のインプロヴィゼーションに、面と向かうべきだ。

『愛したい
人間を!
女を!
太陽が消え果てる程!』

の狂気に触れられるはずだから。
生涯三本の指の一つに入る展覧。少なくとも私には。





このリーディングテープの一本を私は桐箱入りで所有しているのです、ある詩人の方に譲り受けて。これはただの自慢ですが、宝物の一つ。


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